| 私には、密教と音楽という、一見するとまったく違う二つの世界があります。 一方は仏道であり、祈りであり、修行です。 もう一方はギターを弾き、歌を唄い、自分の思いを音にすること。 しかし、長い年月を振り返ってみると、 この二つは私の中では決して別々のものではありませんでした。 むしろ最近になって、その根っこの部分には共通するものがあると、 強く感じるようになっています。 私がギターを始めたのは中学生の頃でした。 当時はまだ密教の道に入るなどとは夢にも思っていません。 ただギターが好きで、ロックやブルースに惹かれ、 仲間とバンドを組み、音を出していました。 21歳頃までバンド活動を続け、 その後は長い人生の中でギターから離れていた時期もあります。 それでも、ギターは完全に私の人生から消えることはありませんでした。 東日本大震災を経験し、 その後、災害ボランティア活動を続けていた頃にも、 音楽は私のそばにありました。 震災によって多くのものを失いました。 長年使い続けたFenderU.S.Aのテレキャスター。 中学生の頃初めて手に入れたGrecoのレスポール。 Lagのエレアコなどなど計6本。 見事に津波で流されてしまい、思い出が流された気持ちになったものです。 そして、人間が生きていく上で、 「言葉だけでは伝えられないもの」 があることも、あの震災を通して強く感じました。 震災後、北海道夕張市や札幌市、小樽市、 東京都立川市などで、 アコースティックライブに参加してきたのも、 やはり震災からの災害ボランティア活動などで動かされた魂を、 形にしたいという想いからギターを手に取りました。 祈りもそうです。 私は現在、真言密教役宝派の祈祷僧として、 震災犠牲者の鎮魂をはじめ、さまざまな祈りを行っています。 密教の修法には、真言があります。 印があります。 観想があります。 そして、声があります。 ただ頭の中で「南無○○」と思っているだけではありません。 身体を使い、呼吸を使い、声を出し、一定のリズムの中で真言を唱える。 そこには、音楽と非常によく似た部分があります。 もちろん、密教の真言と歌を同じものだと言うつもりはありません。 しかし、声や音によって、自分自身の心身を整え、意識を集中し、 何かに向かって心を届けていくという意味では、私には深い共通性を感じるのです。 ギターも同じです。 ただコードを押さえ、弦を鳴らせば音楽になるわけではありません。 右手のストローク、左手の押さえ方、呼吸、身体の力の抜き方、音の強弱。 そして何より、その人間が何を感じているのか。 同じギターを弾いても、弾く人間によって音が違います。 これは修行にも似ています。 同じ経文を唱えても、そこに込められたものは人によって違う。 形式を覚えることは大切です。 しかし、形式を覚えたところで終わりではない。 そこから先に、その人自身の「生き方」が出てくるのだと思います。 だから私は、これからの音楽活動でも、 上手にギターを弾くことだけを目標にはしたくありません。 若い頃のように、ただ格好いいロックを演奏するのでもない。 60歳を越えた今だからこそ、自分が歩いてきた道、震災で見たもの、失ったもの、 出会った人々、そして今も続けている祈り。 そういうものを、ギターと歌に込めていきたいと思っています。 ブルースやロックには、人生の泥臭さがあります。 密教にも、人間の苦しみから目を背けない強さがあります。 どちらも、綺麗事だけでは済まされない「生きている人間」を相手にしている。 そこが、私にとって非常に大きな共通点なのです。 祈りも音楽も、最終的には人間の心に届かなければ意味がありません。 私は密教行者として、これからも祈ります。 そして同時に、ギターを弾きます。 不動明王に向かって真言を唱える日もあれば、 ギターを抱えて海を眺めながら歌う日もある。 一見するとまったく違う二つの行為ですが、 私の中では、その根は一本につながっています。 「自分の生きてきたものを、誰かのために差し出す。」 それが祈りであり、音楽なのかもしれません。 だから私は、これからもギターを弾いていきたい。 一生ギターを離さなかった、ちょっと不器用なじいさんになるまで。 そして、その音の中にもまた、 私なりの祈りを込めていきたいと思っています。 江湖源生拝 |




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